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しとしとと霧雨の降り続く、少し肌寒い午後です。 先程、部屋の中で文献を探していたら、ある本に行きあたりました。 一般に、「自己同一性」と訳される、「アイデンティティ」という言葉。 その意味が、何度聞いてもよく理解できなかった頃に、出会った本です。 この本の一節を読んでから、「確固たる自己」というような、硬質で不自然でしかなかった「アイデンティティ」という言葉が、柔らかくリアルなものとして、すっと入ってくるようになりました。 ~・~・~・~・~・~・~・~・ 最初に、波のイメージを思い浮かべるところからはじめたい。 たとえば、透きとおった海の水面に風が吹きつけている。水面は静かな波のうねりを見せていて、その波の頂点では、白い波頭が無数の飛沫をあげている。それらは、不揃いな姿を一瞬中空に投げあげては、たちまち波間に消え去ってゆく。ぼくが「アイデンティティ」という言葉で思うのは、まずもってそのような波の姿、あるいは波頭の姿である。 それにしても、透きとおった水と透きとおった風(大気)から、どうしてあのような白い波頭が生まれるのだろう。 白い波頭 ― それはもちろん、おびただしい気泡からできているにちがいない。大気が水の微粒子のなかに食い入る激しい運動、あるいは逆に、水が大気の微粒子を抱え込む激しい運動が、そこには繰り返されているはずだ。そもそも波のうねりそれ自体が大気と水圧の絶え間ないせめぎ合いから生じているのだが、それによって打ち上げられた波頭には、大気と水のせめぎ合いがさらに微細な次元で反復されていて、それがあの見事な白濁を生み出しているのだ。 ぼくらは、あの白い波頭の「アイデンティティ」(同一性)を海の水に還元することも、大気に還元することもできない。かといって、波、あるいは波頭という第3の「物質」が存在するわけでもない。波、あるいは波頭とは、たがいに他者である大気と水の、そのつどの特異的な関係なのだ。 細見和之、『アイデンティティ/他者性』、岩波書店. ~・~・~・~・~・~・~・~・ 「確固たる自己」、という統一的なアイデンティティの捉え方に違和感を感じつつも、どこか囚われていた数年前。 この文章は、アイデンティティというのは、様々な「他なるもの」が織り成され、ときにせめぎ合っているダイナミックな運動そのものなのだと、気づかせてくれました。 そう考えると、それまでは自己が確固としていないから起こるのだと思いこんでいた、迷いや、動揺や、葛藤が、とても大切なものに思えてきて。 「私」という場に潜在、もしくは入り込んできた「他なるもの」たちが、迷いや葛藤という形をとって相互作用している、まさにそのこと自体が、その人のアイデンティティを生じさせているのですから。。。 しかし、かつて素敵な出会いをした本や音楽、絵画や映画などと、またふとしたときに出会いなおすのって、とても楽しい経験ですね。 そういえば雲も、大気とも水ともつかないものでしたね。
by anim-_-m
| 2006-06-09 16:50
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